ケッタウェイズ・アンソロジー

(by荻嶋正己)

最終更新日:01/08/08

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We Loved You   投稿日:10月10日(火)20時13分21秒

 4曲目に入る前に「A Lonely Birdに挑戦」コーナーがあった。
 ステージでこの曲を唄える(唄いたい)人を、番組で募った。他にも「ケッタウェイズに挑戦」や「夜をぶっ飛ばせの替え歌」コーナーがあり、それぞれたくさんの応募葉書を頂いた。その中から、何人(何組)かの方々にステージに上がってもらい、「技」を披露してもらった。

 このような場面になると、國本も僕もすっかりリラックスできるのだった。
 「コンサートに何故葉書をたくさん持ち込むのかとお思いの方もいらっしゃるでしょうが、これは単に気を落ち着かせるだけのためです。次の曲は、と言ったとたん全員緊張してしまいます」とこの日かどうか忘れたが、僕が言ったのは半分正直な所である。
 後の半分は、リスナーの方々との生の交流。これは欠かせない。
「おーい、葉書をくれた**君!清水までたどりついたか・・・そーかよかった」などの会話は決して演出ではない。僕らは本当に心配していた。
 そう言えば、いつかのコンサートの前日に「徹夜組が大勢出ている」との情報が入り、練習を中断して、佐藤が会場に駆けつけ、家に帰ってもらった、などということもあった。
 学校や教育委員会やPTAの敵であるのはいっこうにかまわない。ケッタウェイズコンサート禁足令が出されたこともある。
 でも「リスナーに何かがあったら大変で、言い訳など出来ない」と皆思っていた。

 ステージでの交歓は、本当に楽しかった。こんなにも番組とケッタウェイズを愛してくれているのかと。もしこれからも、このバンドが続くなら、これは絶対に必要だなと感じた。
 しかし、結果的には、同様なことが出来たのは、2年後のサードコンサートだけだったと記憶している。様々な事情から。

 この日を境に、ディレクター佐藤信雄の司会進行役としての役割が欠かせないものになった。「しゃべり手が二人いるのだから進行は俺達がやる」などとは露ほどにも考えていなかった。
 佐藤のしゃべりは、見事なものだった。
 あの時代、全国に何千人もの「ディレクター」がいただろうが、本業をやりながら千数百人のお客さんの前で、ベースギターを弾き、唄い、ステージの進行まで出来たのは、彼だけだっただろう。

 鷹森泉にしてもそうである。この時はのちに有名になる「一言コーナー」はなかったが、ドラムの前で葉書を読むときに、計算しているのか、いないのか・・・彼独特の「間」で観客をおおいにわかせてくれた。

 前年位から、静岡県内各地で、ディレクター佐藤アナウンサー荻島の公開録音(本業である)が増えてきた。タレントや歌手を招いてのイベントだ。生放送も多かった。
 痛快だったのは、いわゆる前説で佐藤が登場すると、場内大歓声、大騒ぎ。これで、タレントはビビる。「あの人は誰?」「いや、うちのディレクターです」
 そのあと、僕が出て行く。もちろんタレントさんをつぶそうなどとは思っていない・・・
 
 ファーストコンサートの一年前、静岡西武デパート屋上のイベントで、僕がデュエットした当時の人気歌手、水越けいこは社員用エレヴェーターに一緒に乗ったとき「私、ひょっとすると殺されてしまうかもしれませんね」と言って、西武の担当者をドギマギさせた。
 
 「デパートの屋上ではずいぶんやったけど、こんなにお客さんが集まったのは久しぶりです」と、とても礼儀正しかったのは、フィンガーファイブ。

 人づてに伝えてきたのは、春風亭小朝くん。「ありゃないですよ。勘弁してください」(浜松のイベントの時だろうと思う)

 いずれにせよ、あの時の「君達が」作り上げてくれた現象だ。 

 いつだったか、屋外の公録で、佐藤を表に出すと混乱するからアシスタントディレクターを前説に出せ、となってY田が出て(彼も水曜日の番組で人気者だった)やはり、タレントが動揺したのだった。

 「A Lonely Bird」のキーはBメジャーセブンスであり、女性には半端で、声変わり前後の男の子には高すぎた。キーを替えたほうがいいのはわかっていたが、そうすると台無しになるのがこの曲だ。すみませんでした。
 そして、僕が唄った。
傷ついた小鳥   投稿日:10月 8日(日)16時57分54秒

 「A Lonely Bird」は、学生の頃作った曲だ。73年の夏の終わりから、9月中旬新学期が始まるまでの期間、当時組んでいたバンド用に書いたうちのひとつ。
「Tears」「You Said You Loved Me」という曲もあわせて出来上がったが、この2曲はケッタウェイズで演奏したことはない。

 74年「Tears」でヤマハのポピュラーソングコンテストに応募した。スローなワルツが、当時の「ヤマハ好み」ではないかと判断したからだ。案の定テープ審査は通過して豊島区公会堂のステージに立った。
 僕は、アナウンサー試験の真っ最中で、何回目かの音声試験を終え、慌てて会場に向かったのだがすでにリハーサルの時刻は過ぎていて、ぶっつけ本番ということになった。
 演奏の出来がどうだったか覚えていないが、審査員の一人に「英語で唄うことの必然性」について意地悪な質問を受け、「僕の発音に問題があるかも知れないけれど、この程度の英語わかりませんか?」と答え、後でほかのメンバーに怒られた。
 結局、次の当時完成したばかりのサンプラザ大ホールのステージを踏むことは出来なかった。

 「You Said You Loved Me」という曲は同年秋、ラジオ関東(今のラジオ日本)で歌手丸山圭子が担当していた「圭子のソネット」という番組に出演させてもらい、ライブで演奏した。こちらは軽快なポップス調である。
 この時のグループ名は「シンシアグネス」。僕の通っていた大学に、南沙織(シンシア)とアグネス・チャンというアイドル2人が在籍して いたというだけで、ほかに思い浮かばなかっただけである。実際メンバー5人の大学はバラバラだった。
 グループ名については実に無頓着というかルーズで、あるメンバーが在籍している大学の学園祭では、その人がリーダーになる。例えば、紅一点のキーボードが通っている女子大では「玲子&ボーイフレンズ」になったりした。

 オリジナル10数曲に、コピー曲のレパートリーもけっこうあったが、何故かビートルズはあまりやらなかった。「I Will」と「Maxwell's Silver Hammer」くらいのものだ。

 「A Lonely Bird」は、僕は気に入っていたし、他のメンバーも嫌いだった訳ではないがお客さんの前で演奏したことは、あまりなかった。少なくとも、ダンスパーティにはふさわしくない。
 
 この当時のさまざまな思いが、ケッタウェイズに結びついた。
 SBSのCスタジオにこもって、一人でギターを弾きながら録音した「A Lonely Bird」を「1400デンリクアワー」のH多ディレクターに売り込んで放送したのは、すでに「長老カモメの伝説」を流していた國本へのライバル心だけではない。

    ここでお詫びと訂正です・・・
  ファーストコンサートで演奏したのは18曲ではなく20曲でした。

 さあ、1979年3月22日に戻ろう。
 それにしてもファーストコンサートは20世紀中に終わるんだろうか?心配になってきた。
カネよ翼に   投稿日:10月 7日(土)00時52分38秒

 3曲目、ビートルズの「I Should Have Known Better」の演奏を始めるころには清水市民会館のステージ上は、紙テープで埋まっていた。
 曲の途中、僕のマイクのブームに引っかかったテープと、ハンディカメラのシールドが絡んでマイクがぐるぐる回り始めた。マイクを追いかけながら唄った。
 赤のストラト(ケッタウェイモデル1号)で間奏を弾きながら「やっぱり12弦ギターが欲しいな」と思った。
 國本はまさにジョンレノンばり。魅力的なイントロのフレーズをハーモニカで奏でると、すぐさまリードボーカルだ。しかし曲の構成上、それでも唄い出しに間に合わない。2人で唄いはじめないと、どうにもカッコがつかないので「ハーモニカを吹きながら唄えませんか?」と僕は言ったのだが、これは、たしなめられた。

 暗闇の中から、突然目の前に自分をめがけて飛んでくる紙テープを、ちょっと首をかしげて避ける技には自信があった。「首振り人形」という人もいたが、あれは自己防衛手段でもあった。
 ギターのネックにテープが引っかかるとドキッとしたが、これはテープを引きずりながら演奏するしかない。テープとギターの弦を一緒におさまえてやるぞ、と言う位の気迫が必要だ。

 「芯を抜いて投げてください」とお願いしたこともあったと思うが、投げる方の身になってみれば、コントロールがつけにくい。何より面倒だ。

 もちろん、飛んでくるのはテープだけではない。漫画雑誌、お菓子の袋、トイレットペーパー、訳のわからない物体等など・・・
 この日の「主役」はコインだった。開幕前にH山プロデューサーが「お金でも投げてやってください」と、ジョークのつもりで言ったのが、やっぱりまずかった。

 ただ僕は、國本が「いや〜、痛い。投げないでね」と言うまで気がつかなかった。コインは主に國本めがけて飛んできていたのかもしれない。
 彼はきっとお賽銭を投げたくなるような存在だったのだ。

 2部になって、僕の「お月様ギター=河合楽器のブルーメタリックのムーンサルト」のネックにコインが命中し、チューニングがバラバラになった。
 「投げるんだったら、お札にして下さい」と僕。ひょっとしたらと思ったが、さすがにお札は飛んでこなかった。コインはその後も飛んできた。

 そう言えば、あの時の「お賽銭」はどうなったんだろう? 「SBS愛の都市訪問」みたいなのに寄付したんだろうか。

 この日の演奏リストを確認してみたが、全18曲中7曲がビートルズナンバーだった。まだ、オリジナルが少なかったこともあるが、なにしろビートルズをやりたかった。
 「まるでリンゴスター」の鷹森のドラミングはカッコよかった。
清々しかった日々   投稿日:10月 5日(木)21時00分42秒
 
 ファーストコンサートのオープニング曲「何をそんなに」の歌詞は大部分を國本が完成させた。
 僕が書いたのは結局、冒頭の「何をそんなに〜」だけだ。
 釈然としないものはあった。しかし、自分で作ったメロディーに全て日本語の歌詞をのせる自信がなかったのも確かだった。

 4人で何回も練習して、ラジオで放送するために録音した。佐藤のベース、鷹森のドラムスがいい感じで曲を仕上げてくれた。
 「クンちゃんが、ハンドマイクでリードボーカルをとるのがいい」と提案したのは僕だ。とにかくステージを駆け回って欲しいと思った。
 初めてステージで演奏したのは、78年12月の「駿府ロックジャム」だと、公式記録にある。國本の弾けるようなパフォーマンスが、古いVTRに残っている。でも3ヶ月後は、さらに良かった。前述したが、横でギターを弾いていてとても気分が良かった。

 「心の扉」と「何をそんなに」はオタマジャクシにギターコードを添えた葉書を作ってリスナーの方々に送った。採譜してくれたのは、エレクトーンの名手、國本夫人である作った曲を、楽譜に残すという習慣があったのは僕だけだったが、それでも面倒くさいのでやらなかったことも随分あった。

 このミュージアムで、当時の2枚の葉書を確認できる。
 「心の扉」には「5人のケッタウェイズ」のイラストが描かれている。
 「何をそんなに」では「4人のケッタウェイズ」の写真がある。
 78年の夏が終わりかける頃、キーボードの河野憲了が脱退した。以前から予感はあった。深夜の練習にこない日もあり、僕たちのやろうとしている方向には、控えめながら批判的だった。
 「これ以上つきあうと、アナウンサーとしてのコンディションが保てない。ナレーションに興味を持っているから」というのが、彼の言い分だった。
 僕たちとしては、引き留める術はない。これは業務ではないのだから・・・
 それに彼の言うことは「正論」ではある。尋常ではないやり方を僕たちはしていたから。
 とにかく、人気グループ「ガールズ」をさしおいてとりを取った「ロックジャム」のステージに、彼の姿はなかった。

 このイベントは河合楽器が主催して、静岡県下のバンドを県内最大の会場で競わせ、おしまいに、ビッググループが登場してお開きというものだった。
 出演の依頼が、いつどの様な経緯であったのかは覚えていない。でも、少なくとも大イベントでとりを務めてくれというような話ではなかった。

 しかし、この日(78年12月のある日)は、それぞれ静岡県内各地で仕事があり、4人が集まれるのは、イベント終了間際だった。僕は、御殿場の近くで、スキーのロケをしていた。珍しくもテレビの仕事だった。

 駿府会館に4人が集まったのは、ステージ直前だったと思う。楽屋には、僕たち以外の人たちも結構いたように思うが、僕は國本夫人の「がんばってください」の言葉をよく覚えている。

 それはともかく、ファーストコンサートだ。
 2曲目は「心の扉」。この曲の間奏の後部で、僕はバイオリン奏法をやるのだが、うまくやった記憶はあまりない。ボリュームペダルというものがあると知った時は悔しかった。
 
 前回の文章に、英語の綴りの間違いが二カ所ありました。お詫びとともに、訂正します。
 BAYBAY'S IN BLUEはBABY'S IN BLUE
  I'LL BE TLUE TO YOUはI'LL BE TRUE TO YOUでした。
 ギターと同じくミスタッチが多いようです。
Bayby's In Blue   投稿日:10月 1日(日)20時52分12秒

 「デンリクソング」と呼ばれた、僕たちの最初のオリジナル曲は「心の扉」であり、作詞は、番組で公募した中から選ばせていただいた、当時沼津市にお住まいの高校生小笹若菜さん。200通余りの中から選んだこの作品に、異議を唱えたものはいなかった。
 メロディーは、最初僕がつけることになった。
 確か、1978年の春だったと記憶している。

 一週間以上、寝ても覚めても「君の、心の扉を静かに開いてごらん・・・」が頭の中でぐるぐる回っていたが、どうしても曲にならない。
 ある日アナウンスルームで國本に「ごめん、どうもメロディーがまとまらない」とうち明けた。
 「俺がなんとかしてみるよ」と國本。それから2、3日後、彼のマンションで「心の扉」を聴いた。
 クラシックギターを手に「マチャミ、こんな感じでどう?」と唄い始めた。
 聴き終わってまず思ったのは、キー(Dメジャー)が低すぎるということと、サビへの展開、つまり「白い雲のような優しさは・・・」にいくまでのメリハリがあったらいいなということ。
 でも全体的には気に入った。(このあたり、後輩のくせに生意気な僕を許した國本の大きさは特筆されるべきである)

 テンポを速め、キーをEメジャーにあげて、サビの前後のアレンジを提案した。國本はこころよく承諾してくれた。
 そうなると、全体的な曲のイメージだ。ここから先は彼と話したことはない。

 したがって想像で言えば、おそらく國本は、加山雄三&ランチーズ風にやりたかったのではないかと思う。もちろん僕も嫌いではないが、少し違うニュアンスを出したかった。
 そこで、バーズの「ミスタータンブリンマン」のイントロに近い感じのフレーズを考えた。そして、サビの最後に入る僕のフレーズは、ホリーズの「I'II Be Tlue To You]でトニー・ヒックスが弾いていた感じを出すことにした。

 それから19年後、復活コンサートへの練習の時、僕が不覚にも目からよだれを垂らしてしまったのは、この曲だけだった。特に「忘れられない若い日々を・・・」はたまらなくいい。

 そして第二弾「ぶっちゃけソング」。今度こそ僕がつくらなくてはいけない。
 学生の頃思いついたメロディーの切れっ端の中から、ヒントを探した。
 テープに録音してあるものもあり、オタマジャクシにしてあるものもある。
 その中から「Baby's In Blue」と言う曲を選んだ。

 Last night I fell asleep,and dream about you in my sleep
 Baby,youre dressed in blue,you looked so neat...

 「何をそんなに」をご存じの方は、最初のコーラスを口ずさんで欲しい。昔作ったこの曲をベースに「ぶっちゃけソング」を考えた。
 「何をそんなに、難しい顔してさ・・まるでこの世の悩み独り占め」というのが僕の考えた日本語版「何をそんなに」だった。そして、サビの8小節を書き加えて4人に提示した。

 ところが、國本はOKを出してくれなかった。
 「マチャミ、もっとストレートな表現の方がいいよ。ちょっとだけ待ってくれ。俺が考えてみる」と言った。
 これだけではなく、國本と僕の仲は大方の人が思っていたような「仲良しの二人」ではなかった。
 悪いのはほとんど僕だけれど・・・
遙かなるファーストコンサート   投稿日:10月 1日(日)11時21分04秒

 コンサートが始まるのだから、幕が上がるのは当たり前だ。でもタイミングというものがある。
 真っ暗なホールに、ラジオでお馴染みのPRスポット(制作=國本、ナレーション=神村、鈴木両アナ)が流れる。と、ほぼ同時に幕がスルスル上がり始めてしまった。
 その結果どの様な事態が発生したかと言えば・・・

 薄暗いステージに、所在なげにたたずむ4人のシルエットがぼんやり浮かび上がる。
 「オー」という観客の声援も、やや戸惑い気味。スポットが終わらないうちに演奏を始めるわけにはいかない。ここで照明がパッと当たってしまったら、どんな顔をしていればいいんだ?
 幸いそれは避けられたものの、数十秒間が数分間に感じられた。
 それでも、神村アナの格調高いナレーションの最後のセリフが流れ、鷹森のスティックがカウントを刻み始めると気分が高揚してきた。「さあ、行こう!」

 ステージ中央にハンドマイクの國本良博、上手に赤のストラトキャスターを抱えた荻島正己、下手に赤と黒の洒落たベースをかまえた佐藤信雄、奥の一段高い所にドラムの鷹森泉。
 全員、黒のタートルに黒のスラックス。78年暮れの「駿府ロックジャム」からこの年の春までは、いつもこのスタイルだった。
 そして二部では、春らしいユニフォームを用意していた。

 オープニングは「何をそんなに」。
 この曲のイントロは、6弦でF#Gを弾いた後、小指で押さえる2弦のDの音が気持ちよく響けば後は問題ない。実際ステージでこの曲をしくじったことは、ほとんどなかったと思う。「一度もない」と言い切れないところが情けない。
 すべての曲について、それぞれの担当パートをどの様に演奏するかは、それぞれが責任を持ってなんとかする、というのが僕たち4人の暗黙の了解事項だった。
 もっとも「恋したその日から」のエンディングのギターフレーズについて、鷹森に僕が相談したり僕が鷹森に「こんな感じでたたいてほしい」とリクエストしたりしたことはあった。
 「感じ」を伝えるだけで即座にそれに答えてくれる鷹森のドラミングは、本当に見事だった。
 
 そんな訳で、少なくともオリジナルのリードギターのフレーズは全て自分が考えたものなのに、「苦手」が存在した。
 例えば「今日こそは」のイントロとエンディングの成功率は5割を切っていたように思う。「また、やっちゃうんじゃないか」といつもドキドキしていた。

 コンサートに戻ろう。
 ステージがサーッと明るくなり、今度こそすっきりとした歓声の中、國本良博が駆け回る。ドラム台に上って鷹森と、下手の佐藤と、そして上手の僕と、それぞれ1本のマイクでデュエット。
 「この曲をあたまに持ってきて正解だ。いいぞクンちゃん!」

 ただ、当時「ぶっちゃけソング」と呼ばれたこの曲を作るに当たっては、ちょっと複雑な思いをしたこともあった。
 
 コーラス部分のメロディーラインのほとんどは学生時代の74年頃に作り、未完成ながら英語の歌詞を乗せていた。しかし「みんなに覚えてもらうこと」が重要な曲だ。
 そこで、なんとか日本語をのせようと考えたのだが・・・
涙なんか飛んでゆけ、えいえい!   投稿日: 9月29日(金)17時51分53秒

 1979年(昭和54年)・・・
 時の総理は、大平正芳。
 名人、三遊亭円生が鬼籍に入り、さだまさしの「関白宣言」が大ヒット、
 インベーダーゲームの爆発的ブームにも、さすがに陰りが見えてきたこの年の3月。
 EC=欧州共同体の対日戦略文書の中に「日本人はウサギ小屋に住む」との一節があることが判明。しかし、おおかたの日本人は反発するどころか「やっぱり、言われちゃったねー」とためいきをついていた。

 そんな時代の風をいっぱいに受けて、ファーストコンサートが始まる。

 前日は、SBSAスタジオでのリハーサルと様々な準備で、やはり深夜までかかってしまった。
 だったらやめればいいのに、いわゆる「ウェンズデイナイト独身3人男」は呑みに出かけた。
 ウィスキーのつまみは、例によって佐藤はサラミ、僕は大盛りレタス。
 コンサートの招待券発送の責任者佐藤は「絶対、ピッタリ満員になるはず」と言いながらもちょっと心配そう。「もうちょっと配っちゃっても良かったんじゃない?」と僕。

 結果的には佐藤の判断は正しかった。この時に限って言えば・・・
 しかし、この自信が翌年の、浜松でのセカンドコンサートの大混乱を招いたのだった。
 それについては後述する事にして、この日清水市民会館は、程良く埋まった。
 「超満員」ではなく「主催者側発表の満員」くらいだった。それでも千数百人の人たちが僕たちだけのために(たぶん)集まってくれたのだった。

 ラジオでおなじみの、コンサートPRスポットが流れ始めた。先輩の神村アナと鈴木アナが格調高くしゃべってくれたやつだ。
 「さあ、行くぞ」と思ったその直後、なんと幕がするする上がり始めた!
 段取りがいきなり違うじゃないか・・・
One of Kettaways.......   投稿日: 9月22日(金)18時03分14秒

 「こんな立派な会場で僕たちだけのコンサートが開けるなんて、夢のようです」

 ステージでの國本良博のコメントに、隣にいた僕は大きく頷いた。
 ファーストコンサートはケッタウェイズにとって到達点であり、ピークだと思っていた。

SBSラジオ「ぶっちゃけスタジオCUTIN!」は好調だし、バンドも続けていきたいとは思っていたが、練習時間がとれるか不安だった。
 「へたくそが練習もしないでステージに上がる事態」は避けたかった。
 とは言え、全員が揃うのは夜中から明け方までの時間帯しかない。
 「いくら何でも仕事(本業)に差し支える。やってらんないよ」と誰かが言い出せばそれまで。
 すでに妻子のいた國本が「家庭人としての俺の立場はどうなるのだ?」と言い出せばそれまで。
 結果的には、それから5年数ヶ月後、僕が「解散」を口にするまでは、誰も「やーめた」とは言わなかったのだが・・・

 「もうすぐ飽きられるさ」「いい気になりやがって」冷ややかな声も聞こえてくる。
 今考えれば無理もない。それまでどこの放送局でもそんな現象が起きたことはなかった。
 その後、アナウンサーがレコード、CDを出したり、舞台で朗読劇をやったり、ディレクターがバラエティ番組に出演して有名になったりしたが、それらとは全く異質なものだ。もちろん「女子アナブーム」との共通点を見いだすのも難しい。

 ポイントは、ここ数年のはやり言葉でもある「双方向性」だったと思う。
 番組への葉書、電話。イベント、コンサートでの交歓。
 SBSの1階ロビー(当時は結構広かった)には、連日あふれんばかりの「面会希望」のリスナーの人たち。
 様々な場面で僕たちは、直接的にはもちろん、間接的にもコンタクトがとれないけれどたぶん「かなりいるはず」の人たちとのつながりに自信を深めていった。
 と同時に「いい加減な事は出来ないな」と感じ始めていた。
 僕がそれをはっきり意識したのはこの日、1979年3月22日だった。

 そしてそれから約3年間、目の回るような、忙しくも騒々しくも楽しい日々が続いたのだった。

 さて、リハーサルが終わってお弁当の時間。どういうルートなのかはわからないが楽屋ではやたらと、サイン用の色紙やパンフレット、生徒手帳、画用紙、ただの紙などが4人の間を行ったり来たりする。食事どころではない。もっとも僕は緊張していて食欲はなかったけれど。

 この日僕は、5台のギターを持ち込んでいたので、とにかくチューニングが気になっていた。
 白のフェンダーストラトキャスター、赤のストラト(提供河合楽器)、ブルーメタリックのムーンサルト(河合楽器提供)、アコースティックギターにクラシックギター・・・

 楽屋でどんな話をしたかは断片的にしか覚えていないが、一番リラックスしていたのは佐藤だったように思う。

 さあ!M丸アナの前説に続いてH山プロデューサー兼悪徳マネージャーの挨拶だ。
 幕の後ろで、僕たちはスタンバイ。「お金を投げてやってください」って、まいったなー・・・
 ラジオでおなじみの、PRスポットが流れる。

 ところが・・・・・何でこーなるの!
ファーストコンサート経験しています   投稿日: 9月12日(火)18時18分01秒

 1979年3月22日木曜日の朝、静岡は花曇りだった。
 7時に起きてすぐにSBSテレビにチャンネルを合わせる。
 「おはよう7:00」の五木田さんの呼びかけに、上原アナが答える。
 「残念ですが、今日も富士山はよく見えません。でも天気の崩れはない見込みです」

 「あー良かった」とつぶやきながら狭いアパートを出る。

 SBS本社集合は、9時。
 もっとも、ディレクターでもある佐藤と鷹森は、いつのコンサートの時も、1時間は僕ら(國本荻島)より早く来て、様々な仕事をこなしていた(ように見えた)。

 やがてH山プロデューサー、司会をしてくれるM丸アナ、そして2台のカメラでコンサートの模様を収録してくれる技術陣も勢揃いしてくれて、清水文化会館へ・・・

 あの時代、僕たち4人はよくバンで移動していた。僕だけが(今も)運転出来ないので他の3人や、Y田ロードマネージャー、キャスタードライバーがハンドルを握ってくれた。
 僕は、少しビートルズみたいだなと思って、車の中でギターを弾いてはしゃいでいた。

 会場に着いたのは、たぶん10時頃だったと記憶している。すでに大勢の人たちが集まってくれていて「まだ人気は持つかな」と思った。
 コンサートは午後1時スタート、リハが始まる。技術陣、会場のスタッフの方々も入念なチェック・・・
 会場の規模だけなら、前年末、駿府会館(もうとっくの昔になくなったけれど)で3000人の聴衆を前に演奏したことはある。この時のことは鮮烈に刻まれていて4人共、それなりの手応えを持てていた。

 しかし、それだけではない・・・
 この日から、大変なことが始まってしまったのだ!

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